教えのやさしい解説

大白法 495号
 
生死即涅槃(しょうじそくねはん)
「生死即涅槃」とは、生死がそのまま涅槃であり、両者が一体(いったい)不二(ふに)の関係にあることをいいます。
 煩悩を因として生死の果(苦)を招(まね)き、菩提(ぼだい)によって涅槃の証果(しょうか)(楽)に至りますが、この二つは本来、相即(そうそく)して一体不二の関係にあります。
 仏教では、生まれては死に、死んでは生まれるという生死輪廻(りんね)の世界を苦しみの世界と説き、具体的には四苦(しく)八苦(はっく)等を説いています。
 四苦とは生・老・病・死のことで、この四苦に、愛別離苦(あいべつりく)(愛する人と別(わか)れる苦しみ)、怨憎(おんぞう)会苦(えく)(怨憎の相手と会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく)(求めるものを得られない苦しみ)、五陰(ごおん)盛苦(じょうく)(五陰が盛(さか)んになることによって起こる苦しみ)の四苦を合わせたものを八苦といいます。
 衆生は、煩悩(欲望)によって業(ごう)をつくり、その業によって四苦八苦等の様々な苦しみを感じ、その生死の苦しみは輪廻して永遠に続くのです。
 一方、涅槃とは、悟りの境界(きょうがい)をいいます。生死の苦しみは、種々の煩悩(ぼんのう)が元(もと)になって起こることは先に述べましたが、仏教ではその煩悩を断ずることによって生死の苦しみから脱却(だっきゃく)し、涅槃という悟りの境界へ至ると説かれます。
 すなわち、釈尊は爾前権経(にぜんごんぎょう)において、衆生が生死と涅槃とは、二元的(にげんてき)な隔絶(かくぜつ)したものとの迷見(めいけん)に執(しゅう)していることから、煩悩を断ずることによってはじめて悟りを得(え)ることができると説かれたのです。
 しかし、法華経に至ると、諸法実相の義により生死の苦しみの九界(くかい)と、仏界の互具互融(ごぐごゆう)を明(あ)かし、一念三千の妙用(みょうゆう)によって煩悩がそのまま悟りの当体と開かれることを説かれました。
 天台は、この法華経の意義から『法華(ほっけ)玄義(げんぎ)』で、
 「煩悩即菩提(ぼだい)」「菩提即煩悩」「生死(しょうじ)即涅槃」
と説き、また『摩訶(まか)止観(しかん)』では、
 「一色(いっしき)一香(いっこう)皆是(かいぜ)中道(ちゅうどう)
と釈(しゃく)しています。
 すなわち、生死と涅槃という相反(あいはん)する境界は、仏の智慧(悟り)から見るならば、本来そのままが共に一念三千であり、一体不二の関係にあることを説いたのです。
 日蓮大聖人は、『御義(おんぎ)口伝(くでん)』に、
 「今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは生死の闇(やみ)を晴らして涅槃の智火(ちか)明了(みょうりょう)なり。生死即涅槃と開覚(かいかく)するを『照(しょう)は則ち闇(やみ)(しょう)ぜず』と云ふなり」(御書 一七二一)
と仰せられています。
 私たち大聖人の弟子檀那は、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるとき、生死の苦しみは妙法の光明に照らされて、そのまま涅槃の智慧と開覚することができるのです。
 私たちは、ともすれば、生活の中の様々な事柄(ことがら)に、悩(なや)み、苦しみ、右往(うおう)左往(さおう)されがちです。しかし、即(そく)の一字を信心唱題と心得(こころえ)、御本尊に対する唯一(ゆいいつ)無二(むに)の信心をもって題目を唱えていくならば、これらのすべてが解決し、何事にも動揺(どうよう)されない安穏(あんのん)な境地(きょうち)を得(え)ることができるのです。